戦国大名と戦った那珂川の農民
天正十年(1582)大友軍は奪われた那珂川の岩戸庄を筑紫氏から奪い返すために攻めかかりました。大友軍は引き返すときに、農民七八百人が立てこもった中原城を攻めます。中原城は新幹線の車両基地の西側にありました。当時敵方についた農民の財産は奪われ、時には人そのものが略奪の対象となり売買されました。中原の農民は敵方とみなされました。略奪から逃れるため、農民は山の中に逃げるか、戦うかです。中原の農民は戦うことを選び、自分たちが作った城に立て籠もりました。中原の城は丘陵を利用した城で、広い堀もっていました。堅固で大友勢も攻めあぐねました。大友方は破ることが出来ず、去る時に「城はこのようにかしこき場所に作るものだ」とほめていたと記録に残っています。
写真は「中原城堀の跡」です。